論創社
サイトマップ

「女体地獄」

中村 美代子

  その頃、私は、ある救済機関に働いてゐた関係上、いろいろな方面に知己が多かつた。K氏もその一人で学校出のインテリだけれど、何か感ずる所があるというので本所で木賃ホテルを経営してゐた。それは半ば慈善的なもので、その筋からいくらかの助成金が降りてゐたらしい。私は、上京したついでに、この木賃ホテルと関係のあるK養育園へ案内して貰つた事がある。園内の敷地は広くて、その中に幾つもの建物が分れてゐた。先づ男子部の方から観てゆくと、氏の姿を見ると瘠せさらばへた老人や、半病人や、不具者などが丁度救世主にでもあつたように、狂喜の態で集つてきた。中には、おいおいと声をあげて泣出す老人もあつた。K氏は愛児でも慰撫するように、ポケツトからキヤラメルを出して、みんなに分けてやつていた。彼らは本所の木賃ホテルに縁のあつた人たちで、寄辺のない老人や、行路病者として此処へ送られてきたものだ。中には病気が半ば快復して足腰が立つようになれば、また自活の途を求めて、本所の方へ帰るものがよくあるさうだ。とも聞かされた。次は女の収容所だ。私はその中で、かなり年をとつてゐるが、銀髪で小綺麗な顔立ちの老婆が眼に止つた。白粉焼けのした皮膚は、若い頃、化粧に浮身をやつして磨きをかけたに違ひないと思われた。それに銀白色を呈した髪の真中に、大きな赤禿が見えるのも、日本髪で責めつけられた証拠だつた。いづれ水商売の果か? もう、よぼよぼだけれども、若い頃はさぞどんなに美しい人であつたか、そぞろに昔が偲ばれてならない。年齢は? ときくと八十五……と渋い、味気ない声で答へた。
「おばさん、タバコ召上る……」
  とやさしく話かけると、彼女のどんよりした瞳が、ぽつりと灯が点つたように燃上つた。うまそうに燻らす薄煙……そこから昔の幻影も蘇えるのだらう。帰途、事務所の人に尋ねると彼女は昔、吉原の大籬で鳴らした誰ケ袖オイランの成れの果てださうだ。それにしても此種の荒稼ぎした人が、八十五歳の長寿を保つてゐるのは奇蹟だ。その当座、私の空想の中へ、この誰ケ袖オイランの全盛時代の華やかな幻影がつき纏つていたのだつたが……それから約三月経つて、いつとはなしに彼女の記憶も、私の慌しい生活の中から遠退いてゐたが、水泡のようにポカリと再び視界へ現はれてきた。
所はあの養育園ではなかつた。その日、私は千住の百軒長屋を中心とした、細民窟の探訪に出かけていた。この人たちへ近寄るには、彼らと同じ服装をするに限る。魔窟の中へ飛込んでゆくあの呼吸だ。その帰途、私は昔から知合の秋田の小母さんを訪ねた。小母さんは例に依つて、むつつり構えて、下町風の山の神に変装した私を、いやにじろじろ見ながら、肚の中では、いつものように笑つてゐるのだ。小母さんは私を変装の名人? だと折紙をつけてゐる。現に階下の髪結さんは此処へくるたんびに、別人とでも見てるようだつた。
「あれをやらないの……」
  と、小母さんは男の身振りをして見せる。
「近頃、男装はやめたよ、髪を切らなきや感じが出ないぢやないか……」
「その口先だけで結構頂けますよね……」
  小母さんは変に笑つて、御自慢のおしんこを出してお茶をいれる。小母さんは秋田の人だからおしんこを漬けるのがとても巧い。私も用意してきたお菓子の包みをひらく。私の方は大福、小母さんは左利きだから塩せんべい。小母さんとは或る機会から知合いになつたが、彼女もかつてオイランをした身の上だ。と物語つた事があつた。
  それも色気や浮気沙汰ではなく、新婚の夫と死別した当時、姙娠してゐたのを、養母とその情夫の旅役者の共謀で、彼女を手を替え品を替え脅かして、到頭某市の遊廓へ売飛ばしてしまつた。と云うのが話だつた。
  今になつて想へば、「とんだ親孝行さ、あの時はただ生れたばかりの子供が可愛いかつたからね」と小母さんはしんみりと述懐する。その息子も二十歳に近く、今では川崎の工場で職工をしてゐる。彼女は自分の過去の悪い影響が、その子に及ぼすことを惧れて、此処へ別居して住んで、革草履の内職をしながら手堅い生活をしてゐるのだ。案外むつつりしてるけれど、涙ぐましい程気のやさしいひとだ。しかし、肚の底ではしつかりした考へをもつてゐるらしく、如何なる場合でも、人怖ぢをしないし、思ひ切つたことをずばりとやつてのけるという風で、そのくせ、気がむけば平気で猥談もやつた。
「それ、何処で教はつたの?」と、きくと小母さんは至極まじめだ。
「しつたも無理か憂きふしは、夜毎チンツンツ、日毎に替る枕、心つくしの果は愚か、奥のとろくのお客にも、なれ親しんだ身の一徳……」と白石噺の宮城野のくどきで、どんなもんだいという顔。成程その方が近道に違ひない。「何か変つた話がない……」と尋ねると、「あれ、また、このひとは商売気を出したよ……」
  小母さんは、さういひながら窓辺へ寄つて往来を見てゐたが、何を見つけたのか、突然、指をさした。見ると路地のはづれの方から、とぼとぼと歩いてくる、お婆さんがある。私は一瞬どこかで見たような気がした。が、すぐ記憶の中へ上つてきた。煙草を恵んだことのある、K養育園で見た誰ケ袖オイランの成れの果、あのお婆さんではないか……。だが、どうした変り方、あの時は老齢でこそあれ、どこか小綺麗な……昔はさぞやと偲ばせたのが今はもう見る影もなく、うす汚くやつれ果ててゐた。
「あたしや、身につまされて、つくづくあのお婆さんが可哀想になるのさ……」
小母さんは、いつになく溜息を洩らしながら語るのだつた。人生行路の行く果まで行つたかに見えた彼女の境遇が、なぜ、急転変したか? というと、それは小母さんの話によれば、ある日のこと。彼女へ意外な差入れ物があつた。それは昔の誰ケ袖オイランの不遇を伝えきいてある青楼の女隠居が、心づくしの贈物で渋好みの銘仙地で羽織と袷せの対の仕立であつた。それが却て身の仇になろうとは誰が知らう。その贈物に早くも眼をつけたのは、同じ収容所の男子部にゐた甘木という、相場の合百師くづれで、彼は一策を案じて隙を見て、お婆さんに近づいていつた。
「へへへ実はねえ、あつしの伜で、南洋へ出稼ぎして行衛不明でゐたやつが、ひよつこり居所がしれて、しかも一財産を築きあげたんだそうで、もう一週間もすれや、船が着くんですとさあ、処で伜のやつめ、遅蒔きながら親孝行をしようてわけで、あつしや一両日中に、此処をおさらばでさあね、処で考へて見ると、自分一人だけ救はれたんぢや冥利が尽きる。どうせ、だだつ広い隠居所なんだし、序に誰かを誘つてゆきたいと思うのが、人情というもの……お見受けするとお隠居さんはお人柄でもあり、こんな落目になられたのも、時世時節で本当に、ならうことならと、日頃から考へてたが、お気を悪くなさらずに、どうです。あつしと一緒に此処を出て頂けたら、まことに有難いんだけれど、無論、あつしも六十そこそこ、色の恋のと、そんな浮いた沙汰ぢやねえんで……」
  お婆さんに取つては薮から棒の話だけれど、甘木は繰返へし誠しやかに口説くのだつた。彼女がもしも、小格子の女でもあつたなら、無論、対手の心裡をたやすく看破するだらうがおうような大籬の出であるし、随つて社会的にも疎く、それになにしろ八十五の老齢ではボケ過ぎてもゐた。溺れる者は藁をも掴むの譬えにもある通り、せめて気軽にお茶でも呑み、タバコの一服でも喫えたらと、ふと、そんな気になつたのは、魔がさしたとでもいうのであらう。規則づくめの、冷たい境遇では、自由というものに対して、狂的な憧れもあつたのだ。その夜、お婆さんは、養育院裏の垣根の破目から、そつと抜け出した。花が散つて、雨もよひの曇つた空あひだつた。銘仙の着物を包んだ風呂敷は甘木が大事に抱えてゐた。電車で千住へくるまで、彼は一言もいはなかつた。暗い通りへ入ると小雨がしとしとと降り出してきた。そしてある木材小屋の前までくると、甘木は俄然、野獣の本性を現はして、白髪の老婆に躍りかかつて、とんでもない事を要求した。
「へん、お前えも、今じや婆さまだが昔あ、これを商売にしてたつて云うんぢやねえか、年を取つても満更、悪くあるめえ……おいツ、おれにばかり骨を折らしやあがつて、何んとかしな、権たい振つた客振り、てやつあな、男にや好かれねえぜ……」
  甘木は木乃伊のような老婆を、執拗に弄んでから、風呂敷包みと、御生大事にもつている小銭を掻つ払つて、さつさと逃げ失せてしまつた。何十年ぶりかで老の身に受けた衝動で、お婆さんはとうとう其場から起上ることもできなかつた。薄ら寒い小雨にうたれて、屍骸のように倒れてゐた。だがそのまま死の手に引き取られたら、まだその方がせめてもの幸ひだつたかもしれない。だが夜明けと共に正気づいてきた。同時に昨夜の出来事が、途切れ途切れに鈍い脳裡を掠めた。身内の疼くような傷手と、口惜しさに彼女はおいおいと、永いこと啜り泣いてゐた。
  やがてその辺の工場へ勤める職工たちが、幾人も通りかかつて立ち止つた。白髪を振り乱して、口をひろげられたまま疲れ果てた、極度にものに怯え、殆んど狂人に近い老婆を、彼らは不思議さうに見て通つた。若い職工がポケツトを探つてゐたが一円紙幣を二枚取出して握らせた。すると彼の友達が傍からいつた。「動けないんぢやないか? おい、警察へ引渡したらどうだ……」
  警察の声をきくと、お婆さんは、殆どあり得ない程の力を振ひ起して、逃げ去らうとした。警察、拘留、また養育園送り……。あー、お婆さんは、また此処でも救いの手を逸してしまつた。それから後は物乞ひをしながらさまよひ歩いた。貧しいものへ恵むのは決して裕福な階級ではない。同病相憐れむ――と、いうような貧しい人たちに限られてゐた。だがお婆さんがこの近くの鬼按摩の玄田の家へ引取られたのを識つた近所の人たちは、いひ合せたように嘆息した。
「ちよいと可哀想うよ、あの年寄りは碌な目に遭はないよ……」
  その附近のおかみさんたちは、井戸端会議でさう噂し合つた。そのお婆さんが今、路地の入口の方からとぼとぼと帰つてくる処なのである。枯木のような手に、味噌こし笊を抱えている寒々とした姿である。
  家は小母さんの二階から斜めに見える。その後から鬼按摩が帰つてきた。いかにも悪どい面構えだつた。幸四郎扮する処の「盲長屋梅の加賀鳶」に登場する按摩玄沢以上だが、あれは芝居であるし、これは実際の悪党だ。脂ぎつた五十がらみの大坊主で、時々、女湯をのぞいて若い娘が裸体になるのを隙見してるそうだから田螺のように飛出した目玉のどつちかに薄い視力があるらしい。杖をステツキのように打ち振つて、反りかへつてぐんぐん歩いてくる。
「おいツ婆あツ、やいこら飯はまだかツ、今まで何にしてやがつた。こいつ、また、昼寝でもしてやがつたな……」
  門口から喚きちらして入つてゆく声が、此処まで聞える。そして台所のあたりで、いきなりどたん、ばたんという物音、続いて蟇蛙を踏み潰したような老婆の悲鳴……。小母さんは眉を顰めていう。「これから酒が出て、飯を喰つて、その後が大変なんだよ、あのクソ坊主、自分が按摩で労れたからつて、お婆さんに肩から腰を揉ませ……それから」「大変なことつてなあに……」「腰のあたりを揉ませるうちに、つひ、むらむらと野心が起つてくるんだよ……。あんな恐しい顔ぢや、よその女ぢや相手にしまいし、それにあの野郎吝で、女に金を使うのはいやだから、あの婆さんをかまうのさ。恰度ドラ猫が鼠をなぶるみたいにね……」
  私は、それを見る処か、怖くなつてきて早々に帰つてしまつた。それから半月後、私は忘れてゐたが、それ後日譚をきかされた。
「つひ三日前にね、あの鬼按摩のやつが殺されたのさ……」「え、強盗でも入つたの……」「いいえさ、あのお婆さんにだよ……」
  私はへえツとばかり、自分の耳を疑はずにゐられなかつた。「あの鬼按摩がさ、酒に喰い酔つて、腰を揉ませてるうちに、例のことを始めあがつてさ……。その日に限つて、お婆さんの呻き声が此処まで聴えたよ、あたしや口惜しくて、腹が立つて、階下のかみさんと、二人して躍りこんで、あの鬼按摩の畜生を、ぶち踏んでやらうといきまいたがね、後で判つたが、あの呻き声がお婆さんのか、それとも、あん畜生の断末魔の声か、ちよつと判断がつかないんだよ……」「それで、どんな方法で殺して?……」
八十五歳の老婆の殺人。犯罪の手段? 私の識りたいのはそこだ。
「それがさ、お婆さんが、あの枯木みたいな体をさんざんなぶりものにされて、のたうち廻つてるうちに、ふと手に触れたのが、あん畜生が商売道具の針なのさ、その針でアレをずぶりと刺したんだよ。そしてお婆さんはね、その場で空室の引縄で首を吊つて死んぢやつたのサ……」

中村美与子の著書

中村美与子探偵小説選
中村美与子探偵小説選
(論創ミステリ叢書)

Copyright (c) 2008 Ronso sha All Rights Reserved