論創社
サイトマップ

「猟奇地界」

中村 美代子

  無花果クラブ

  大川の濁流が焼跡の泥洲にせかれて、堀割の水もかれかれなH河岸の塵芥捨場で惨殺美人の屍体が発見された。所轄H署から既に係官が出張して、これから検死が始まらうとしていた。その矢先――。捜査係長の甲伍警部はふと橋の彼方を見やると、新聞記者たちと一緒に、今しも、八角眼鏡のずんぐりした背広の男が、遮二無二警戒網を突破して此方へやつてくるではないか。私立探偵の兵六だ。彼は突立つたままで、その独得の捜査行動を開始してゐるわけだ[。]彼が信頼する処の唯一の科学的武器?は、平べつたく拡がつた鼻梁へかけ渡した八角眼鏡なのだが、それがまた彼の考案にかかるもので、中央は素通し、上は拡大鏡、右端は望遠鏡、左端はバツクミラーの代用をするという風で、八角の各稜角はそれぞれ細部に亘つて種々な作用をなすシロモノなのである。彼の八角眼鏡は今、実に多事多端な場合に直面しているので、眼鏡のもつ各機能を総動員して駆使するに急だ。
  まず現場を一見したものは誰しも一度は顔を反らすほどの惨状を呈していた。次に瞳の中へ飛込んでくるのは、白い太股をはだけた間から、生々しい血の塊りが、どす黒くよどんでいる無気味な光景なのだが、錦紗の紅色友禅の長襦袢が背中でよぢれ、柔らかな曲線を描いた胸から腹部へ、腿へかけて――べた一面に捺された血の痕……それは淫らというよりは悽惨な感じた。蒼白い貌は死相に歪んでいるが、年齢は三十前後らしい。検死の結果医師は兇行は昨夜の九時頃、死後約十二時間くらいと推定を下した。暴行は明白だが、多量の出血から各々の間に質疑が提出された。瀝期中の暴行? それも一応はうなずけたが、五十年輩の医師は次のようにいつた。
「僕は合意ぢやないかと思うのだが……」
「これほど、痕跡が、歴然としてもかね……」と検事が反駁した。
「いや、この場合は、始めての肉体交渉の結果ですよ。それに、死体の出血つてやつは往々にして間違ひがあるのです、それは合意の上であつても、男が女に怨みを抱いてるような場合や、或ひは変質者だつたりすると、悽虐なことをしたり、計画的な兇行をやらないとは限らんので、例へば鋭利な兇器で突刺したりして……まあ、この結果は解剖をなつんですな、然し暴行致死という辺が、動かぬ処でせう。この犯人は被害者が絶息した後まで弄んだようだし、この通り死体がひどく荒されてますからね……」
  次に被害者は何者かという点だがこれについては待ちかねていたように、B刑事がいつた。
「絶対にパンパンではありませんね[。]錦紗の長襦袢もさうだし、大体、豊満な肉体と色艶のある皮膚……恐らく生活苦をしらない階級でせう。有閑夫人か第二号というような……」
「然し塵芥捨場とはよく考えたもんだ。証拠煙滅にはもつて来いだからな……」とその時不意に、背後から兵六がつぶやいた。検事はちえツと低く舌打ちした。そしてR刑事にきいた。
「昨夜、その時刻に、警戒網に引掛つたものはないかな……」
「ほら、あの帝銀事件の毒殺魔に似た男ですよ、昨夜十一時頃W区役所の通りから左手へ入つて……焼ビルの一劃に、K商事会社てのがあるでせう、あの辺をうろついてたんです。が、所持品を調べると別に怪しいものはないが、数枚の女名刺の中に無花果クラブというカードがあるんです。しかしですね当人は凡そ女には縁遠い風なんですが……」
「君は、それをどう想うね?」
「そのカードてのが一種の会員章で無花果の葉が書いてありましたよ、その葉つぱをとり去つたら結句裸体でせう。之は何か変つたクラブぢやないでせうか……」
「ウム、そいつの口裏を、引いて見るんだな」
  R刑事は勢ひこんで署へ飛んで行つた[。]一方、鑑識課の技師が、科学的捜査を進めてる背後で兵六が、何かぶつぶつつぶやいていたが、その時いきなり、
「その普通の指紋の他に、頸のあたりと胸と腿にも、鶏の脚みたいな痕がついてますね。そいつの指紋も必要ですな……」と声を大きくした。
  拡大鏡を翳していた若い技師は吃驚して振返つた。その頃H署ではR刑事が毒殺魔に似た容疑者を調べていた。最初容易に口を割らなかつたが、それ自身が昨夜の惨殺死体の犯人としていよいよ大写しされる処まで、追詰められると遂に悲鳴をあげた。無花果クラブはやはり奇怪な集合団体だつた。彼は闇ブローカーの一人だが、類は友を呼ぶ同好者が集つて、無花果クラブを組織した。会長というのは永らく中国にゐた男で上海の魔窟にある、特殊なナイトクラブを真似たものだが、会員は男女相半ばして、もしその夜の会合に奇数の場合は、籤を引いて当つたものが除かれる規則で、彼は昨夜籖引で除外されて、帰る途中警戒網へ引掛つたわけだ。
  かうして無花果クラブの内容が、明るみへ曝かれた結果、被害者は千賀満知子という有閑マダムと判つた。一方私立探偵の兵六はその先に無花果クラブを突止めて、彼独得の捜査を開始していた。やがて捜査係長を始め、正私服の署員が乗込んできたが、先廻りをされているのに気づくと、いやな顔をした。だが兵六はけろりとしていた。
「何あに、わけはないさ、あのH河岸の塵芥捨場は、場所がややつこしいので、通り一ぺんの人間には解りつこはない。そこで犯人は此辺の地理を心得た奴に決つているぢやないか、次にナイトクラブのありさうな処、といへばこの焼ビルを補装した一劃ということになる、その中で商事会社の名目だけで、中味が空つぽで、地下室があつて、そう云つた連中の隠れん坊をやるのは此処以外には考へられませんからね……」
  警官達はぐつと詰つた。無花果クラブの会員を血眼で洗つてゐる最中――なんだか兵六の方に勝味がありさうに思はれたからだ。例の闇ブローカーの男が、苦つぽい顔つきで説明していた。
  午後の八時、予告のベルが鳴るとホールの中央の仕切りが取払われる[。]男女の区別がやつと識別できる程度の薄闇の中で、両側に別れた男女が足踏みを始める。やがて、第二のベルが鳴ると同時に官能的なヂヤズのレコードが鳴りだして、甘酸つぱい情慾の雰囲気の中でホールは暗黒と化してしまう。待ちかまへていた男性の側から、我れ勝ちにと、奇妙な突撃が起る。そして対手をつかまへると、暫く踊り、やがて踊り疲かれると、それぞれに肩を組みあつて、別室の方へ納るわけで、彼らは暗闇の中で、対手の容貌や服装や人柄などを模索し、想像し、密かな私語のうちに情熱を沸らせ、思い思いのうちに、やがて十時のベルが鳴ると、先に女の方から帰つてゆき、それからようやく男たちが帰るわけだ。かうして暗闇の中で密会し、暗黒裡に別れ去る――。そして明るみでは決して貌を合せないのが、このクラブの厳たる掟なのだ。未亡人は、ひとしれずその楽みを解決して帰つてゆく。それは一々会長の指図によるものだが、もし奇数の場合は、男の方が除かれるわけだ。会員にそれを伝えるのは、万平という掃除夫の唖の男を使うことにしていた。
  ――と、照れくさそうに、その男が奇怪なクラブの内状を物語つていると、その時突然、カカカカァーと、鴉が戸惑ひしたような笑声が、ひびいてきた。甲伍警部は憑かれたように其方へ駆けよつた。地下室の北隅で、階段を昇ると万平の室がある。兵六は小児が楽書きしたような絵を万平に見せてゐた。腕が四本あるグロな絵だ。見るまに彼の顔色は土気色に変つた。と、猛獣のような迅さで一足飛びに、石の階段を駆け昇つた。その先に兵六の腕が伸びて、毛むくぢやらの脚を引張り、到頭、地下室まで引摺り下して膝下へ組敷いてしまつた。
「犯人は此奴だ、此奴を裸体にするんだ」
  兵六は、いき[な]り大声でど鳴つた。私服たちが寄つてたかつて万平を裸にすると、さすがの警官達も、アツと叫んで後へ退つた。普通の二本の腕の他に、背中に蜘蛛の脚のような細い腕が二本生えてて、親指と二本づつ固まつた指とで丁度、鶏のような三本指に見えるのだ。その蒼黒く細い畸型な腕がシヤツの胴の中へ隠されてゐたわけである。押へつけられて、ついに悲鳴をあげたところをみると、万平は唖者ではなかつた。
「此奴が満知子に、密かに懸想していて、会長が会員との間に通信してゐたのを悪用して、此奴が故意に人数を減らして自分がその身代りを勤めたんだな、で、僕がどうして此奴に眼をつけたかといへば、唖者? さうきいた瞬間ぴんときたね、試みに天窓から覗いて見ると、彼女の血に彩つた着物や肌着を猫みたいに弄んでいるんだ。しかも四本の手で……この畸型な手にこめた微妙な妖しい遊戯に到つては、恐らくどんな名優でも、真似手があるまいよ。此奴が兇行後何故逃げないかというと最初の成功?に味をしめて、この次に同じ手口でやる肚だつたらしい。満知子は女性のデリケートな神経の作用で異様な手触りや臭ひで、対手の獣ぢみた気配に、気がついた時は既に遅く、此奴の猛烈な襲撃にあつて、その生命まで奪われ、多量の出血に依つて意識を失ひ、遂に倒れたので、息の絶えた後まで、その肉体を玩弄されたわけだ。[」]
「へツへ……あの女のむつちりした白い身体を、ぐつと抱きしめた時にや旦那。わつしは、もう死んでもよいと思いやしたよ。ヒツヒ……」
  万平は気味悪い声をだした。
「恋は闇こそよけれ――そんな神秘性は此処ではゼロだ。遊びがすぎてしまつて、彼女をとうとう地獄のどん底へまで陥してしまつたんだな。変な猟奇趣味に捉われて、とんでもないクラブに、面白半分に入つていたこれも天罰と云うもんだらう」
  兵六はさういひ終つて、最後にカカカカカアと――例の鴉のような奇声をあげて笑つた。

中村美与子の著書

中村美与子探偵小説選
中村美与子探偵小説選
(論創ミステリ叢書)

Copyright (c) 2008 Ronso sha All Rights Reserved