論創社
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「吉田御殿」

中村 美代子

  本郷の丸山福山町に大正館という下宿屋があつた。女将はサワ子といつて、四十過ぎの姥桜だが、彼女は先夫と別れる際に貰つた金を資本にこの下宿屋を始めたのだが、部屋の数は十二あつて、いつも、満員だつた。女将は、止宿人をきめる時には、いつも決つて直接面接して、まず首実検をした。女中は近所の人を捕えてはそつと、こんな蔭口をきいた。
  「うちのおかみさんには、レツテルがキレーでなきゃ駄目よ。その條件さへパスしたら、お金なんかどうだつてかまやしないんだもの……」
  噂は出入の魚屋、八百屋、酒屋から次々と拡がつていつた。止宿人はさまざまで学生、商人、勤人[、]相場師、保険屋、教員という風だつた。夕飯が済むと、彼らは先を争つてみんな寝てしまつた。
「まあ、呆れるぢやないの、うちのおかみさんたら廻しを取つて歩くだよ。本当なんだから、まつたく呆れてしまうよ……」
  こうした噂をよくしていた女中はとうとうお女将に感ずかれて首になつて、代りに山出しの女中がきた。この女は数日たつと、怪訝な顔をして、女将にきいた。
「何故ここの家はヨシダ御殿つて云うんですかねえ……」
  サワ子は丁度、引越してきた来たばかりの相場師と、長火鉢に向き合つて坐つていたが、それを聞くと女将は青筋をたてて怒つた。
「金原さんが、おかみさんに云えつてそう云つたんですもの……」
  女中は女将につねられてベソをかいた。その金原というのは、下宿代も払はずに昨日、引越した会社員だ。それは優男の相場師がきた次の日で、喧嘩になつたのは、その前夜サワ子が金原の宿へ廻りかねたのが事の起りらしかつた。それ迄は金原が、お女将の一番の気にいりだつたが、相場師が来たので、それに見返られたのを、怒つて出てしまつたのだが、その相場師もやがて引越してしまつた。こんなことが繰り返されて二年経つた。誰も下宿代を支払うものはなかつた。それにヨシダ御殿の噂が拡まると、下宿荒しの、たちの悪い連中が押しかけで来るようになつた。
  下宿人は八人に減つたが、その中に真に彼女の相談相手になつてくれる男がそれでも一人だけいた。それは野島という薬剤師で、彼女より十三も年下の青年だつた。彼は自分一人だけにするように云いふくめて、他の男と一切関係を断つのを條件に、まず家中の整理をするため、サワ子を温泉場へやつて、十日間のうちに、止宿人全部を追出してしまつた。
  序に女中も入替えて、新規蒔直しで手堅い止宿人だけを置くことにした。これで大正館は面目を一新して立直つてきた。そこで野原は入籍して、サワ子と公然の夫婦となつた。その年の暮にサワ子は女児を分娩した。無論、誰の子かはつきりしない。その子はすぐ産院の世話で里子に出した。
  彼女はお産をして三日目にはもう起き出して、目まいもしない様子で長火鉢の前に坐り通していた。サワ子は野島と正式に結婚してからも、持前の性癖は決して改たまつてはいなかつた。だが野島は財産だけが目当だつたので寛大だつた。それに彼はある伝染病院の薬剤師だつたので家にいることは殆んど稀れで、大抵は病院で暮していた。彼女の秘密の相手は度々よく変つた。三年たつてまた女児が生れた。今度も里子のはずでいたが、折悪しく野島の母が田舎からきていたので、嬰児を里子にやるのはやめて、乳母を抱えることにした。丁度、乳離れしたばかりの若い女が見つかつた。お目見得にきた時、険悪な顔つきなのでサワ子は断わろうとしたが、野島の母が乗り気なので、やむを得ず雇うことに決めた。彼女はお琴といつた。二十五歳の若さなのに年齢は幾つか見当がつかぬくらい醜くかつた。頬骨が高くて、額が禿げ上つて頭髪が薄いときている。それに眼に怖ろしい蔭があつて、白眼で見返されると、なんだか身震するようだつた。だが顔は醜いけれど、体格がよくてお乳はとてもよく出た。だが気が荒くて、女将とよく衝突し、掴み合いの狂態まで演じた。その頃、女将が株屋の赤池と通じているのを、お琴は早くも感ずいていたがわざと知らぬ顔で黙つていた。と云うのはお琴自身も赤池に気があつたからだ。赤池は女好きだつたが、流石に、お琴へは手を出していなかつた。
  その頃、野島は、毎晩、帰宅する度に、酒気をすこしおびてるようになつた。ある時、女からきた手紙がサワ子の眼にふれたから堪らない。彼女は、ひどいやきもち焼きなので、さんざん家中に鳴り渡るように毒づいた。
  裏梯子から、止宿人たちが足音を忍ばせ、目白押しに進んで甘酢つぱい貌つきで、そつと盗み聴をしていた。
  野島は武者振りつかれてもただ照れたように、笑顔であやまるばかりだ。サワ子は四十五で野島が十二下の三十二歳では、止宿人たちの同情は、どうしても野島の方へ集まつた。翌朝、どう解決したか女将はすつかり機嫌を直していた。野島はサワ子の胃が重たいというので、自分で調剤した薬を置いて出かけた。けろりとした顔つきで、サワ子はすぐ赤池の室へ入り込んでいた。お琴は、ひとりで、やきもきしていたが、すぐ二階へ行つてみんなの室々を、口惜しまぎれにふれて廻つた。
「ちよつとさ、とんでもない恰好でおかみさんが赤池さんの室にいるわよ!」
  赤池が外出した后でお琴の悪口が女将の耳へ入つたから堪らない。よびつけると、お琴の頬つぺたを、ひとつ殴りつけると、お琴も負けてはいなかつた。腕力にかけては若い方が強くて、サワ子はしまいには、壁際へ押しつけられてしまつた。
「チヨツ、くたばッちまへッ……」
  帯を握つて武者振りついた途端、サワ子は、したたか後頭部を壁に打つて、そのままがつくりと、いつてしまつた。お琴は直ちに過失致死罪として取調べを受けた。だが、屍体解剖の結果女将の後頭部に刺つたピンは、急所を外れていて、死因は心臓麻痺と判明して、お琴は六日目に釈放された。
「彼女が死んで助かるのは、なんと云つても夫の野島さ。無一物の彼が十二も年上の千姫の処へ入夫婚姻したのをどう見るかね? 彼が他の若い女を欲しがつていたのは、よく痴話争いしてたのでも判るだろう。犯罪のキイは胃病の薬だ。服用後、数時間後にどんな作用を起すか? しかも何らの痕跡を止めぬやつだ。それは薬剤師たる彼のお手のものぢやないか……」
  赤池は、こう云い残して、大正館をひき払つたが、それから一年后の昭和四年の六月、井上サワ子殺しの犯人として、意外にも彼自身が検挙された。悪女の深情けに弱つた赤池が、ヴエロナール剤を使つて殺害したのを、誰とも判らぬ、ひどい金釘流の女の投書によつて、すつぱり、尻つぽをむかれたからである。

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(論創ミステリ叢書)

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