論創社
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地獄のドン・ファン

西尾 正

  恋愛作家井川春雄は六年ぶりで、別れた女山内芙佐子から手紙を貰つた。

――わたくしのこと(恋愛事件)を描いたあなたの小説を拝見しました。永い間ごぶさた申してをりましたけれど、芙佐子、急にあなたが恋しくなつて……近くもう一度お眼にかゝれたらと存じます[。]お手紙下さいますればいつでも御指定の場所に出向きます。かしこ。

中田(旧姓山内)芙佐子より

おなつかしき春雄さま

  井川と芙佐子との関係は彼女が十九の時から二十(はたち)まで二年ほどの間続いたが、女が病気になるとそれが機縁で、どちらからともなく別れてしまつた。都会は都会なりに寂しさを持つ、或る冬の夕暮れ時、井川は偶然横浜駅の出口のところで慌ただしく行き交ふ人々の中に、病ひの癒えたらしい芙佐子の姿を認めた。彼女はもうあまり話したがらない模様で、かけてゐるマスクをとらうともせず、懐かしさの裡にも何にか、冷たく鋭どい針のやうなものが井川の胸を刺した。彼は多少未練のないこともなかつたが、一面、肩の重荷を下した安堵感を覚えたことも事実だつた。
  二人の恋愛は、遊戯恋愛だつたのである。井川は女から女へこの遊戯恋愛を重ねて、次ぎ【踊り字】に優れた恋愛小説を発表して行つた。それゆえ彼の原稿の一字一句には、作者自身の気づかぬ不気味な妖気が漂ふてゐるのであつた。
  それにしても何だつて今頃、手紙などくれたのだらう。彼女は恐らく中田何がとし(ママ)呼ぶ男と結婚した。そのために井川との関係を清算したに相違ないのだらうが、その良人に満足できず、過ぎし日の井川との甘い夢を追想したのであらうか[。]
  彼はそれからの数日間を、せわしなく原稿を書くために費やしたが、ふとセンヂユアルな妄想の泛んだ宵、手紙の封筒に誌された住所宛てに芙佐子への逢曳の返事を書いた。するとその手紙は「名宛人不明」の附箋がついて彼の手許に戻されて来た。彼は不審に思つたが、芙佐子に対し変に真剣だつた自分の愚を嗤つた。書くものがものだけにこの種のいたづらには度々出会つてゐる。今度も亦誰かのいたづらだらう。それともあの気混(まぐ)れ女は己をからかつて出鱈目の住所を教へたか、どこかへ引越してしまつたのかも知れない。――彼は苦笑して窓をあけ、海を眺めた。月のない海は暗く、それゆえに渚に晃り輝やく夜光虫の群が一層際立つて艶麗に見えた。

  横浜の中華料理店で開かれた友人の出版記念会の帰途井川が酔ひさましに焼け跡の荒涼とした街の電車通りを歩いてゐると、傍はらを黒つぽい和服を着た娘が摺れ違つて行つた。「おや?」と思つてゐると彼女はとある路地の口に入りかけた。相手は気づかなかつたらしいが、井川はその女が確かに芙佐子に相違ないと思つた。どちらかと云へば小作りな、肉の締つた体付、夜目にもそれと知られる頬の白さ、澄まして歩く時の臀部の肉の動き方など、みな井川には甘美な思ひ出である。思はずはつとして娘の姿を追ひ返ると、彼女は路地の入口に彳ずんで井川を見、微笑んだやうに
見えた。
  「芙佐子さん……」井川は半信半疑にかう呼びながらふらふら近づいて行くと娘は青白い衿脚を見せて(ママ)げるやうに路地に駆け込んだ。路地の両側には平行してバラツクが軒を並べ、その方向に暗い夜空があつた。その夜空に女の後ろ姿が一瞬浮き彫りのやうに映ると、そのまゝ左側の格子の中へ吸ひ込まれるやうに消えた。その時の黒つぽい単衣に包まれた女の曲線がふつくらと、周囲の風物から遊離して不自然なほどはつきり見えたのを井川は異様に思つた。彼は芙佐子と覚しき娘の入つた家に興味を覚え、その家の前に立つた。燭光の低い軒灯が格子に貼られた一枚の標札をぼんやり照し出してゐる。

「横浜市南区大岡町××番地 大沢寓」
  井川は先日芙佐子宛てに書いた手紙のことを考へた。確かにこの番地は一度書いた記憶がある。しかし、大沢と云ふのは? 彼はこの家に入つた女が芙佐子だと思ふ自信がなくなり、煙草に火を点じ一と息大きく吸ひながら、尋ねよ(ママ)うかどうしよ(ママ)うかと思ひ惑ふて、尚も三、四分格子の前に立つてゐた。その気配が家人に胡乱と思はれたのか、畳のきしむ音がし、どうやら老人らしいえへん【ワキテン3】【踊り字】と云ふ咳声(しわぶき)が聞えて来た。井川は急いでその場を立ち去つた。……
  「やつぱり人違ひだつたのだ」自宅へ帰る車中、物倦い動揺に身を委せながら、井川は思はず声に出して呟いた。隣りの乗客が顔を覗き込んだが、彼の考へは一点に固定して他人の思惑など眼中になかつた。己は芙佐子が二十六になつてゐたのを忘れてゐたのだ。よしんば路地に消えた女が芙佐子だつたとしても、あの軽快な足取りは十九の娘だ。井川は過日の手紙の一件を思ひ出し、どこか頭の隅の識閾下に忘れた筈の妄念がひそんでゐてそれが娘時代の芙佐子の幻影を見させたのらうと結論した。しかし、この結論はどうやら彼に満足を与えなかつたらしい。
「己は酒を飲んでゐたのだ。」
  割り切れぬ不気味さを無理矢理に酒の酔ひに持つて行かうとして、却つて彼の顔は益々こわばつて行くのであつた。
  謂はばこの今夜の一小事件がやがて来たるべき怪異な終局の前奏曲であらうとは、いくらかやき【ワキテン2】のまはつた恋愛作家にも分る由はなかつたのである。

  初夏の夕であつた。彼の住んでゐる湘南の海岸地はこの頃になると都会からの出入りが多く、駅は混雑するのであつた[。]電車が着いて人々が改札口へなだれて行つた。井川はその中に一人の見憶えのある女を発見した。彼は前回の経験から人違ひではないかと疑つたが今度こそ芙佐子に相違なかつた。彼女はバスの停車場に立つてゐる井川の方に向つて歩いて来るところであつた。十間位の距離をおいて芙佐子も井川を認めた。彼女の眼は驚きと恋しさと同時に怨ずるやうな色を見せて少し早足になつた。井川は予期しない出会ひに自分の方からも近寄つて行つた。芙佐子は裁断のいゝ灰色のフラノのワン・ピースを着て赤いバンドをしめ足に喰ひ入るやうな形のいゝチヨコレート色の靴を穿いてゐた。肉体の線にはもうどこにも一時井川の好奇心を刺戟した処女らしい堅い肉乗(ししの)りは見えなかつたが肌理は一層こまやかに柔軟さを増してどこかに窈窕とした魅力がひそんでゐた。
「よく会つたわね。……あたし、あなたをお訪ねしよ(ママ)うと思つて来たの。だつてお手紙は下さらないし、もう待ち切れなかつたのよ。」
  二人は期せずして並んで歩き始めた。井川はどこかの心当たりの店で食事をすませ暗くなつてから自宅へ連れて行かうと考へながら、人のいない神社の方へ歩いて行つた。まだ夕陽が眩しく、二人は寄り添つて伏眼加減にして歩いた。
「僕も君の手紙を見て、一度会ひたいと思つてゐたから、――」井川は簡単に手紙が名宛人不明で戻つて来たことを告げた。
「さお? をかしいわね。」
芙佐子はしかしこの問題にはあまり触れたがらない模様だつた。
「でも、手紙の裏に書いた通りのとこなんだけど」
「そこへは手紙が着かないのだ。同番地に中田と云ふ家はないし――」
「そんな筈はないわ。あたしたち、ずつと古くから住んでゐたんですもの。よくつて? 横浜市南区――」
「――大岡町××番地。」
「さうよ、その通りよ。」
「君は嘘をついてゐるんだ。住所を教へて貰つたつて、君の迷惑になることを僕がするとでも思つてゐるの?」
「いや、そんなこと云つちやあ……でも変ね、ほんとに手紙がつかないなんて」

  一生涯独身を決意してゐる井川は海の見える砂丘に瀟洒な家を建てゝ、老家政婦と二人で暮してゐた。
  寝室の長椅子に身を投げかけ寄りそふと見る間に二人の唇は合つた。久しぶりの永い永い接吻だつた。それはまるで互ひに相手の生命を吸ひとつてしまふやうな、むしろ必死とでも云ひたい猛烈な情熱の激突だつた。
  …………
  鳩時計が物倦く十一時を報ずると、芙佐子は帰ると云ひ出した。「あたし、朝がいやなの」と云つた。窓から吹き込む微風が青臭い磯の香を運んで二人の頬を撫でた。
「厚かましいとお思ひになる、勝手に別れて、勝手にまた会ひに来たりして?」彼女は男の胸の中に顔を埋めた。
「六年になるわね、もうあれから……。経つて見ると早いけど、やつぱり永かつたわ。だつて、あたし、ふしあはせだつたんですもの。」
「――結婚したの?」
「えゝ。……でも聞かないで、そんなこと。それよか、六年の間どんなにあなたが恋しかつたか、気がちがひさうなこともあつたのよ。」
「だから、かうしてまた逢つてゐる。」彼の唇は女の耳のすぐ側にあつた。
「ほんと。……もうあたし、あなたを放しはしないわ。捨てられゝばそれまでだけど。」

「バカ……」
「ごめんなさい? でもあたし、もう自信がない。体も弱いし、年もとつたしの……」
「そんなことはあるものか。そんなことはないよ。」井川は彼女を引きよせ、性急に云つた。「君は却つて美しくなつてゐる。」
「ほんと?」
三月(みつき)に一遍でも、半年に一遍でも、あなたに逢つてゐたいの。捨てないと、誓つてくれる?」

  芙佐子は井川が止めるのも聞かずにどうしても帰ると云ひ張つた。支度がすむと二人は戸外へ出た。一人で帰ると云ふのを井川は無理に送つて行くと云ひ、海岸伝ひに駅への道を行くことにした。
  凄いほど明るい月夜だつた。渚を歩む二人の影がからみ合つたまゝ長く尾を曳き、或る時は走り或る時は立ち止つた。砂丘の松の防風林は無風の大気の中に鎮まり、骸骨のやうな痩せこけた幹の間を月光が流れ込み、青い桟模様(さんもよう)が砂地を這つてゐた。その上を二人はさらさらと歩いた。松並木が尽きた暗いところで、芙佐子が突然云つた。
「春雄さん、あたしウソをついてゐたのよ。あたしの本当の住所はA――墓地なのよ。」

「A――墓地? 東京の?」
「さうなの。A――墓地の……」
  彼女は続けて何か云つたが、井川にはハツキリ聞きとれなかつた。彼女は何事か口走りながら井川の手を離し、一人でずんずん早足で闇の中へ走り去つて行つた。
「芙佐子さん……芙佐子さん」
  井川があつけ【ワキテン3】にとられて追はずにゐると、暗闇の中を彼女の靴音がばたばたと次第に遠去かつて行つた。
  井川は一人彳ずんだまゝ、彼女が突然道徳的反省に捉はれたのだらうと想像した。臆病な、感情の繊細な女によくあるあの悦楽のあとの悔恨と羞恥心だ。きつと好人物の亭主のことを思ひ出したのだらう。それならそれでまた謀反気を起すまで待つさ。女と別れたあとは女のことを忘れるに限る。――井川はもう唇辺に卑しい笑みを泛べて踵を返した。
  彼は書斎に入り、濃いコーヒーを命じてから、一冊の部厚いノートを取り出した。
そして今宵の芙佐子のことを細々(ほそほそ)と誌し最後に「彼女は吸血鬼(ワンピール)だつた」と書いた[。]
  老婆がコーヒーを持つて上つて来た
「旦那さま。」
  彼女は主人がペンを置くのを見て恐る恐る云つた。
「何だ?」
「旦那さまは、なぜあんな方をおつれになつたんですの?」
「あんな方? なぜだ? 別嬪ぢやないか。お前はさう思はないか?」
「まあ、どうしませう……あたし、怖くて【踊り字】早く帰つてくれゝばいゝと、そればかり思つて震へてをりましたの。」
  井川は不審に思つて、相手の顔を瞶めた。老召使は窓外の暗を怖れるやうに身を寄せた。
「だつて旦那さま、あの方は痩せて、真青で、髪はばらばらで、まるで死人のやうだつたぢやありませんか。」
  井川は真冬に水を浴びたやうに感じた。

  恋愛作家は芙佐子の想念に憑かれた。二、三日して今度は昼間もう一度横浜の大岡町を訪ねないではゐられなかつた。そこにはやはり、夜見た時と同じ「大沢寓」と云ふ標札がかゝつて格子の中に人の気配がした。その声が今度は女で、
「誰か家を覗いてゐるよ。この間の人だね。物騒だよ」とはつきり聞えた。
  井川は今度は意を決して声をかけた。
「失礼ですが、お宅に中田芙佐子と云ふ方はおいでゞせうか?」
「中田? 芙佐子?」と玄関口に出て来た四十女が首を傾げた。「そんな方はゐませんね。わたしどもは大沢ですから」
「先達の夜、芙佐子さんがお宅へ入るのを確かに見かけたのですが――」
「いやですよ。内には若い女なんかゐませんよ。」女は井川をさげすむやうにじろじろ眺めた。すると奥から老人の声がした。
「――周三さんの奥さんのことだらう」
「あ、周三さんの奥さんですか。」と女は座敷を見返つて心当りがあるらしく肯いた。
「――その方ならもう大分前に死にましたよ。何でも胸がわるかつたとかで。」
「死んだ?」井川は思はず声を大きくした。
「御主人がさう云へば中田とか云ふ人でしたよ。中田さんならわたしどもの前にこの家に住んでゐた人ですよ。」
  井川は息を呑んだ。
「もしや、芙佐子さんの寺を御存知ぢやないでせうか?」
「さあ、そこまでは知りませんね。」
  井川にはすべてが不可解だつた。家へ帰ると早速机の引出しから芙佐子の手紙を取り出して見た。これだけは疑ふことのできない実在である。のみならずこの筆蹟も確かに見憶えのある芙佐子のものに相違なかつた。勿論幽霊の存在を信じない井川は、今回の不気味な事件は一から十まで友人たちの悪どいいたづらに相違ないと断定した。そこで友人名簿を繰り、彼と芙佐子の過去の情事を知つてゐる者たちの顔を思ひ泛べ、それらの全部に一々手紙を書いていたづらではないかと詰問した。彼はどこからか返事の来るのをひそかに期待したが、その期待は空しかつた。
  彼はあの夜の芙佐子の嬌態を思つた。いかに久々の逢瀬であるとは云へ、未だ嘗てあれほどの情熱に悶えた女に出会つたことはない[。]彼は全身をしびらせつゝもこの女に生命力を尽く吸ひとられてしまふのではないかと虞れ、甘美な陶酔の裡に、恐ろしい吸血鬼とともに彼自身堕ちて行く地獄のドン・フアンを感じた。彼は青ざめ、震へた。

  新聞が井川春雄の失踪を伝へたのはそれから間もなくだつた。爾来数ケ月間行方は知れず、流行作家を追ふ各社の雑誌記者も井川の家の門前でとまどひした。当然井川の作品は一篇も発表されず多くの愛読者たちを失望させたが、冷たい秋がそろそろ樹々の葉を黄ばませ梢を払ふ頃ほひ、A――墓地の或る墓の段の上に腰かけてゐる恋愛作家の異形な姿を発見した者があつた。
  発見者はこの墓地の裏手に住む勤人だつたが、時々急ぐ抜け道にその墓のあるところを選んでゐた。彼は通り縋りに、和服に黒のソフトを被つて端然と墓石によりかゝつてゐる一人の若く美しい男を認めたが、もしその顔に恐怖の表情が刻まれてゐなかつたならば、屍体だとは思はなかつたらうと云つた。かほどまでに彼を脅やかす何にを彼は見たのか。かつと見開かれた両眼は空間を凝視し、口は咽喉仏の伺へるほど大きく開らかれて舌は釣り上つてゐた。皺の刻まれた青白い額と歪んだ眉には帽からはみ出した幾條かの前髪が垂れ下つて、全身硬直したまゝ右手に一通の封書を掴んでゐた。それが最後まで謎を秘めた芙佐子の手紙だつたことは云ふまでもない。
  屍体を起して見ると、石碑には「中田芙佐子之墓」と刻まれてあつた。
  井川はかうして死んだ。
  死因は心臓麻痺だつたと云ふ。

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