論創社
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情痴温泉

西尾 正

  ○裸体の女

  あれは確か太平洋戦争の始まる前の、昭和十五年の冬だつたろうか、社用で静岡へ出張して、修禅寺の温泉宿に滞在したことがある。けうまでに僕の知つた女の数は、職業的なプロステイテユードを除いて、三百三十三人あるが、その女は二百二十二人目の相手だつた。
  寒い夜だつた。浴室の扉をあけると、誰もいないと思つてた浴槽の蔭のところに、女が一人、蹲つて湯を使つている。冬のことで真白い湯気が充満して、女の姿はソフト・フオーカスされているのだが、肉附や皮膚の色を見ただけでも、若い女であることは直ぐ判つた。
  裸かになつた女の肉体は、ぽつてりとした一個の肉塊である。ここでは男女の混浴は、遠慮されているのだが、やはりこう云う手違いはあるのだろう。「あ、失礼」と云つてタイルの冷たい床を二、三歩進んだなり立ち往生のていたらくだ。 「いいえ、そうぞ…」白い靄の中から、かなりハツキリした女の声が、浴室特有の反響を伴つて聞えてきた[。]「すぐ出ますから………」
  調子のいい声が意外だつた。言葉のニユアンスから一種の歓迎の意を酌みとつたと云つたら己惚れだと嗤うかしら? 歓迎の意を?――さよう、裸の表情を裸で受け取つたのだ[。]だから直観と云うより他はない。
  僕は広い浴槽の、毛穴の一つ【踊り字】が分る位に透き通つた、いくらか熱め加減の、溢れるばかりの湯の中に体を浸した。一方の角に体をもたせながら、改めて女を観察することにしたが、僕の位置がその目的に、好都合の方角であつたことは云うまでもない。パーマネント・ウエーヴの豊かにふさ【踊り字】とした髪の幾筋かが湯気を吸いとつて真白い頚に纏いついている。年の頃は二十二、三であろうか、極めて栄養のいい肉附で、その逞ましい脂の浮いた肩と云い、憎々しく盛り上つた乳房と云い細くくびれた胴から急に膨れ上つた臀の曲線と云い、一つとして男の嗜好を唆らぬものはない。一言で云えば、女が神から授けられた機能を、最大限度に発揮すべき頂点の時期に、彼女は咲き匂つている。成熟し切つた女の、無技巧の有りのままの美がここの浴室の一角を占領しているのだ[。]美が?――いや、美に就いて語る資格はない。女の肉体に芸術家の口にする美が、はたしてあるのかないのか、僕には分らない。だからそれを単に魅力であると云い直してもいい[。]異性が異性を惹きつける、貪らんな得体の知れぬ能力だ。これなら僕にも分る。しかもその南国的なぽつちやりした寧ろ放縦な曲線は明らかに生娘ではあるまい。最初に馴れ【踊り字】しく発した、声の色つぽさから推察しても、けうまで既に何人かの犠牲者が、彼女の脚に踏みつけられて来たに相違ない。
  やがて彼女は悪びれずに立ち上ると、手拭を拡げ、両端をつまんで長く垂らし、乳房から下のわづかな部分を隠して、視線を此方に向けたまま、ゆつくりと、僕と対角線の一端に体を浸した。一本の手拭の被い得る部分はたかが知れている。僕はその時の彼女の露出症的な、相手の心を見抜こうとする鋭どい目を、まざ【踊り字】と露出された肉体そのものの魅力を忘れることができない。僕はその頃三十二歳だつた。男の三十二が二十前後の女にとつてどれほど好もしい年齢であるか、世間の数々の実例がこれを証明している。シヨオペンハウアーを待たずとも神の意思なのだ。だからその浴室の中で彼女も亦僕の肉体から艶めかしい刺戟を感受したと断定しても必ずしも己惚れだなどと思つて貰いたくはない。
「御旅行ですか?」と、僕は云つた。
「はあ……いいえ―」
「静岡も中々寒いですね」
「はあ…」と大胆に見入つて、
「東京でいらつしやいますの?」と尋ねた。
「東京です」二百二十二人目でもこう云う場合いつも初恋のように僕はどき【踊り字】する。
「――で、おひとりで?」
「はあ」と、視線をそらし、
「沼津から参りましたの」
「沼津ですか。沼津は僕の――」
  直ぐ出ますからと云う言葉を裏切つて彼女は、それから一、二回出たり入つたりし、湯槽の中で無造作に脚を延ばしたり折り曲げたりした。そう云う姿態が男にどう云う反応を起させるか充分に知りながら……。それから、脱衣室の彼女の豊満な輪廓(ママ)が、区切られた曇りガラスを通して、いつまでも揺曳していた。
  グリルで晩餐を済ませてから、ベツトに寝転んで、無暗に煙草をふかしながら、夜のふけるのを一刻千秋の思いで待つた。男が女を思う堪えられない焦燥だ。僕はもはや抑制と云う美徳を鬼に喰わせてしまうことに決心した。
割り切れぬ不気味さを無理矢理に酒の酔ひに持つて行かうとして、却つて彼の顔は益々こわばつて行くのであつた。
  その時、時計を見たからよく覚えている、十一時十分だつた。彼女の部屋三十九号室に忍び入つたのは―[。]その頃はもう止宿人も眠り廊下を行く女中の足音も聞えなくなり、街の騒音も消えていた。僕は息を呑んで三十九号室の扉をこつ【踊り字】こつと、三度周囲をはばかりつつ叩いた。恋の冒険の止められないのは、相手の意向がイエスかノオか分るまでのそれを探る心の緊張にある。扉が音もなくそつと内側に引かれて、一尺ほどの空間が現われた。寝台のスタンド・ランプの強い琥珀色の光がぼーつとその空間を彩つている。その中に確かに女の顔があつた。どなた?――と云う眼が、僕であることが分ると、その探るような色は消えて一種の艶めかしさに変つた。僕がその眼にぢいつと喰い入つていると、女はそつと囁いた。
「早く……扉、しめて――」

  ○深夜の謎

  強烈な、しびれるような、現実忘却の一時間あまりだつた。別れる時女は僕の口をすいながら「今夜はどうしてだか、魔がさしてあなたに身を委せてしまつたけれど、本当はあなたなんか、すこしも好きではないわ…」と云つた。だが私は満ち足りた気持で女の部屋を出た。彼女がその時、ベツトに腹這いになつて、煙草を吸いながら僕の方を見送つていたのを確かに覚えている。
  時計を見たら二時だつたから、女と別れて一時間ほどとろ【踊り字】したらしい。すると三十九号室の方から、スリツパの音がぺた【踊り字】聞えた。それは異様に忍びやかである。跫音は僕の部屋の前を通つて、誰かが便所にでも起きたのだろう、と思つていると、それなり化粧室の扉の音もせず、また戻つても来ずに、どこかへ消えてしまつた。ちよつと気になつたが、突然襲つて来た睡魔に抗し切れずに、そのまま眠りに陥ち込んでしまつた。
   朝になつてあまり周囲が騒がしいのて(ママ)、寝巻のまま廊下へ出てみると三十九号室の前に私服、官服の警察官が立つていて、ただならぬ模様だ[。]女中に聞いて見ると、昨夜のあの女が何者かに殺された、警察の方がどこへも出ないで下さいと云つていましたと云う。僕は確かに不利な立場にあることを悟つたが、身に覚えがないと云うことは、なによりの強味だ。いつも通りの旨い朝飯を食いハム・オムレツを三皿も平げてから、命ぜられた通り、館内の広間に他の泊り客と一緒に缶詰にされた。
   広間ではあつちの椅子、こつちの椅子に、渋い顔をした六、七人の缶詰め組の連中が、それ【踊り字】座を占めている。こう云う時にはきまつて音頭取りが現われるもので、どこかの商店主風の中老の男が、
「屍体は、絞殺されたもので、咽喉首には若向きの派手なネクタイが、結びつけられてあつたから、この中に犯人がいるとしても、我々老人の仕業でないことは確かだ、我々には若い女を殺すような色つぽいことをする元気はないよ…」と傍わらの同じ年輩の男を見返つて笑つた。
「さよう、なんでも、犯人はえらく力のある奴らしい。と云うのは、ネクタイで首をしめる前に両手で扼殺したらしく、その爪痕がハツキリ残つてるんですからね」
   と、笑いかけられた男が見て来たようなことを云うと、皆はぎよつとして、互いに観察し合い、若い力のありそうな者を物色して、それらの視線が僕と、偶然、僕の隣りの長椅子に傲然とそり返つている、首の太い軍服を着た男に集まつた。若い男と云えば僕とその男と二人きりだつたからである。
「殺される前に、その女は、誰かと情交を結んだらしく、その痕跡が認められたそうだ。派手なネクタイをしめて、女の寝室に忍びこんで弄んだ挙句に、殺人を犯すような若い男は?」
  改めて皆の視線が、僕達二人に集まつた。将校は、耐りかねたようにぐいと身を起すと、
「……犯人が、証拠と、なるような自分のネクタイを、現場へ残して行くものですか……情交の痕跡があつたそうだが、云うことを聞いた女を殺す莫迦はいませんよ。欲望をとげたら、殺す気は失くなつてしまうのが普通でしよう。これは表面に現われた事実よりも、更に複雑なものがありますよ。だから、この意味で老人だつて疑えますねえ」
  うがつた話なので、皆が聞いている裡に、取調が(ママ)まつた。
  僕は、正直に自分の行為を白状した。しかし警察官は、僕の言葉を信じてくれず、僕と彼女とが昔から関係があつたものとして、何かの意趣晴らしに殺したのだろう、恐れ入つてしまえと、直ちに本署に同行されて、その晩は留置された。
  翌朝、留置場の高い窓から、ほのかに見える空は青いのに、陽のはいらぬ暗い廊下を、刑事に促されて、二階へ昇つて行くと、すれ違いに、昨日の将校に出会つた。
  刑事部屋では昨日聞かれたことを繰り返して、また聞かれたが、僕が夢うつつに、廊下のスリツパの音を聞いた、と云う段になると、昨日はてんで問題にしなかつたのに、今度は至極乗気で、「二時頃に間違いはないか」とか「そのまま消えてしまつたのだな」と鋭どく追究された。
「時計を見たのだから、間違いはないし、女の足音だと思つたから、注意深く聞いてましたから間違(ママ)ありません」とはつきり私が断言すると、
「そうですか…」と、今度は、言葉遣いも叮嚀にして、一本のネクタイを差し出した。そして、
「これをしめて見給え」と云つた。そして結び目を暫くみていたが、
「よろしい、あなたは釈放します」とあつさり云つてくれた。

  ○肉体の痕跡

  後になつて、これは判つた事だがやはり女は男の情婦だつた。陸軍中尉として軍籍にあつた男は、背広に変えて、しめし合せたこのホテルへ女のあとを追つて来たのが、途中で用事ができて、遅れて来たところ、女はもうねていた。待ちかねていると思つたのが案に相違して、そのまま女の横へ入つたところ、意外にも女は誰か他の男に身をまかせた直後らしい事を、その肉体の感触で気ず(ママ)いた男は、烈しい嫉妬に肚立つて、無意識に女の首をネクタイでしめてしまつたのだ。
  周章てゝ室からぬけだすと、今度は軍服に変えて、玄関から入つて来て、最前誰にも見られずに通つたのを、好都合にして改めて、女中に宿泊を求めたのだが、ネクタイを忘れて来たのは失敗で、あの猪首の太いのにしめたから、ネクタイのしわがふつうの者のと違つていたのだが、あつさりと動かぬ証拠になつてしまつたのである。(了)

西尾 正の著書

出版業界の危機と社会構造
西尾正探偵小説選 I
出版社と書店はいかにして消えてゆくか
西尾正探偵小説選 II

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